2016年10月13日木曜日

ニーチェを愛する日本


2、3年前だったか、BBC(英国放送協会)ラジオ 4の番組で、日本では、「ニーチェの言葉」(写真下)という本が、すごいベストセラーになって、100万部以上売れた、とたまたま口にしたら、その番組の司会者は、ニーチェがそんなに日本で人気があったとは、と驚いていた。


実を言うと、日本人がニーチェを好きなことは、周知の事実なのだ。去年は、生田長江という翻訳家が、ニーチェの作品を翻訳し始めた100周年記念だった。長江は、20年かかってニーチェの全作品の翻訳をするという巨大なプロジェクトに取り組み、12巻に及ぶニーチェ作品全集を作り上げた。そして彼の作品は、非常に影響力を持つことになった。

私たちが、「吾輩は猫である」、「それから」、「門」、「斜陽」、「仮面の告白」、「金閣寺」、「鏡子の家」といった、「日本的」の典型と思いがちな20世紀の文学作品の、いかに多くが、ニーチェの概念に溢れたものであるか、ということは一般に知られていないが、実はニーチェの概念の影響が、これらのどの作品にもはっきりと見られるのである。

たとえば、かの有名な夏目漱石の「吾輩は猫である」(1905-1906年)にしても、たいていの人は、軽い諷刺小説だと思っているが、とんでもない。漱石は、ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」を英語の翻訳版で、その本を書く直前に熟読していて、「吾輩は猫である」は、ニーチェに関する沈思黙考で溢れているのである。

漱石は、英文学に通じていたので、他の誰よりも先に、実際にニーチェを読んでいたに違いない。しかし、だからといって、日本で「ニーチェ」という名前が知られていなかったというわけではなく、それはすでに日本に強い衝撃を与えていたのだ。1901年から1903年にかけて、文学者の間で、「美的生活論争」が起こり、芸術は道徳を超えて美に関することだけに関わっていればいいか、という点について論じられた。この論争の中心にあったのは、ニーチェの革命的な考えだった。

1909年、漱石が「それから」を朝日新聞に連載していた時、生田長江という若い翻訳者が漱石を訪れ、「ツァラトゥストラはかく語りき」を日本語に翻訳するという大業の助けを求めた。長江はドイツ語に自信がなかったので、2冊の英語版から翻訳しようとしていた。長江を助けるために、漱石は「それから」を書きながら、ツァラトゥストラを再読し、ドイツ語版と英語の翻訳とを比べた。


一方で漱石は、彼の作品の中でも最も深くニーチェの影響を受けていると言える「門」(1910年)を創作しようとしていた。実は、この小説の題名は、ニーチェから直接取られたのだ。朝日新聞から、次の小説の題名を決めるように急かされていたので、彼は若い弟子たちに題名を決めるように頼んだ。弟子たちは、「ツァラトゥストラはかく語りき」の本のページをパッと開いて、たまたまそのページで見つけた言葉、「門」を選んだのだった。

漱石はその言葉を聞いたとき、すぐにツァラトゥストラにおける中心的なイメージ、永劫回帰の事を思い起こした。ニーチェの考えは、「冒険」という概念を通して、その門の中に現れる。この小説の主人公、宗助は、妻とごく普通の生活を送っていたが、彼の以前の親友が、(実はその親友の妻を自分の妻に娶ったのだが)満州で「冒険者」になった、と聞いてから、「冒険者」という言葉を聞くだけで恐怖に襲われるようになった。精神的安定を得るために、宗助は禅寺に逃げるが、その経験からは何も得ることができなかった。漱石がここで示唆しているのは、禅そのものがニーチェの言う「冒険」であり、その「冒険」を実行するには、論理を捨て、「危険」で非論理的な考え方を受け入れることが必要とされるのだ。

ニーチェの概念は、大正、昭和期の作家である、芥川龍之介や太宰治の実存主義的な苦悩にもつながるだろう。実際太宰は、彼の小説、「斜陽」(1947年)の中で、今までの価値体系が崩壊した時代の貴族階級のことを描きながら、何度もニーチェの概念をほのめかしている。谷崎潤一郎の作品に見られる虚無的なエロチシズムもニーチェの思想と深い関連性がある。

しかし、なんといっても昭和期におけるニーチェの主唱者の最たるものは、三島由紀夫であろう。三島がニーチェを気に入っていたことは誰にでも明らかで、三島が1970年に、あのように世間を騒がせる自殺をした後で、三島の母親は、あの世でも読めるようにと、三島の仏壇にニーチェの本をいつもおいておいたほどだった。

三島がニーチェを読んでいなかったら、「仮面の告白」の中で見られる人間の心理と性的関心の深淵を探る、ということは、まず不可能だったろうし、三島がその後取ったどの方向をとってみても、ニーチェに何らかの意味で繋がっている。1950年代初めに三島を捕らえた「ギリシャ熱」のせいで、三島は古代ギリシャの遺跡を訪ね(ディオニューソス劇場 写真下)、膨大な量の戯曲を書きまくったが、これも、三島がニーチェの「悲劇の誕生」を読み、その中でニーチェが、人間の本能の「ディオニュソス的」な不条理に対して起きた「アポロン的」な美の観点を、見事に論評していた事と親密に関連している。


三島は、「金閣寺」に見られるように、超越した美を探求し、伝統的な道徳を否定したが、それは三島が、20世紀初頭の、ニーチェに取りつかれた「美的生活」信奉者であったことを連想させる。実際三島は、「神の死」というニーチェの概念を日本の場合にあてはめ、日本も、1946年に昭和天皇がその神格性を否定した時、日本なりの「神の死」を体験したと主張した。そしてそれ以後、「鏡子の家」(1959年)に長々と描写されているような実存的危機に陥るのである。

皮肉なことに、前世紀からニーチェが日本の思想と文学に巨大な影響をもたらしたにもかかわらず、それは、「日本らしさ」にだけ注目している批評家からは通常は無視されている。驚くことに、朝日新聞が「それから」と「門」を再連載するに際し、膨大な量の批評と全くおもしろみのない保守的な分析を載せたにもかかわらず、そこには「ニーチェ」の一文字すら見つけられないのだ。

孔子の教えを超えることができないようである日本の文学界は、これらの優れた作品を、そのままに捉えるのではなく、「エゴイズム」への真摯な探求であると信じたいようである。これらの作品は、深遠な哲学的概念と真正面から取り組んだ、とびきり知的な諷刺小説であるが、それと同時に、さまざまな人間の状況を、思いやりを持って描写したものである、という事実にもかかわらず。

一方、翻訳家生田長江は(写真下:墓石)、20年もの歳月をニーチェの翻訳に費やし、日本の文学界に多大な影響をもたらしたにもかかわらず、今日ではほとんど忘れ去られている。


しかしながら、である。しばらく前に、私は「生田長江鑑賞協会」とでも言えるような、「白つつじの会」というグループからメールをもらった。はっきりいって、そんなグループがあると知って、私も驚いた。その協会の本部は、生田が生まれた鳥取県にある。協会誌を発行していて、私が昨年日本語で、「それから」と長江とニーチェとの関連について書いたブログを載せてもいいか、と頼んできたのである。

私は、まるで地下のゲリラ組織と、共通の目的でがっちりと手を組んだかのように感じた。そして、今こそ、ニーチェの事を現代日本文学の偉大なる歴史の中に書き込む時期であると私は思った。そこにこそニーチェは存在するのである。ニーチェこそが、排他的な概念の「永劫回帰」を防ぐために必要なものだと、私は信じるからである。





2016年10月11日火曜日

ベッキーと河野多恵子、そして日本の「かわいい」文化を考える


私が今年の初め、ロンドンの大和日英基金本部で講演をしていた時、ルーシー・ノースさんという、フェイスブックでの友達に初めて会った。ルーシーはそのイベントのために、わざわざ遠いところからやって来たのだった。ルーシーという人は、一晩や二晩、じっくり話し込まなければよく理解できないのではないか、と思わせる人だった。マレーシアで育ち、ケンブリッジ大学で日本学を専攻し、ハーバード大学で日本文学の博士号を取り、アメリカに8年間住み、それから東京には13年……

ルーシーは、自分で20年前に翻訳したという、河野多恵子という作家の(写真下)短編集を私にくれた。「河野の作品を知っていますか。」と聞いて、自分は河野の作品が大好きだと言った。その本の題名は、どう見ても変わった(しかもはっきり言って、かなり不気味な)もので、「幼児狩り」といった。おそらく自分では選ばないだろう本であったが、わざわざ私に渡された本であったので、翌日の夜、帰りの電車で読んでみることにした。


私は、ここ2,3か月、すでに自分でも「不愉快な」日本の本を読んだと思っていた。村上龍の、サド‐マゾ セックスを露骨に描いた短編集の英語版、「東京デカダンス」や、野坂昭如の、(美しいおとぎ話風に書かれているとはいうものの)あらゆる種類の身の毛もよだつような戦時中の恐怖が描かれている「小さい潜水艦に恋をしたでかすぎるクジラ」の批評を書いたからだった。それでも、この「幼児狩り」は、今までの中で断然、一番不気味であるとともに刺激的であったと言わなければならない。「幼児狩り」は、戦後日本の、重要であるが比較的知られていない女流作家が書いた、1960年代を舞台にした短編集で、どれも女性が主人公である。

河野多恵子は、昨年1月に88歳でこの世を去った。彼女は、変態的欲求というタブーを描いた谷崎潤一郎の影響を公認していた。河野の主人公も、ノイローゼを病み、嫌悪と欲求をかろうじて抑制している。その多くは、マゾで、たとえば、ある主人公は、思春期前の少女を嫌悪する一方、思春期前の少年を、支配しようとする。しかしながら、彼女の小説がその力量を発揮するのは、そのような複雑な心理状態を、まるで当たり前のように描いている点である。村上龍は、たいていは性労働者の世界であるサド‐マゾを、生々しくセンセーショナルに描いているが、河野は、まるで余談であるかのようにさりげなく描いているのである。

河野の小説は、谷崎潤一郎が書いたものよりはるかに不安な気持ちにさせると言わなければならない。というのは、河野はその「変態的欲求」をあからさまに書くのではなく、禁欲的に、その女性主人公の性格に内在しているものとして描き、辛辣な諷刺とブラックユーモアとして明らかにするからである。私にとって、このような欲求は、女性が心理的に抑圧的な社会的制約のもとで暮らすことを余儀なくされた時、よくある状況ではあるまいか、と思われて仕方がない。1960年代の日本の女性が、無理やり結婚させられ、まるで子供のように夫に養われながら隔離された生活を送り、母になるという生理的な宿命を全うするように強いられている、と感じた時、その女性の日々の心理的葛藤が、変態的欲求に形を変え、はけ口を見出すというのは、当たり前のことではないだろうか。それが、たとえば自虐行為であったとしても、あるいは自分と同じ性の幼児に対する本能的な嫌悪感であったとしても。


河野の小説の中で何度も出てくるテーマは、「偽りの親」とでも言うべきもので、血のつながった親戚だと思っていたものが実は他人だったことが露見するとか、子供の世話をまかされた義理の親が、実はその子供をひそかに嫌っているが、その縁を切れなくて苦しんでいるとか、そういった形で描かれている。たとえば、「雪」という、それは悲しい話の中で、主人公の女性は、父親の妾の子で、義理の母親としての父親の妻が、その子のしつけを強制的にさせられている。ヒステリックになったその母親が、まるでメデューサのように、ほぼ同じ年のわが子を、雪の中にほおりだしたままにして殺してしまうのだ。河野の小説の中で、河野は、日本そのものを、心理的に抑圧された女性たちにとっての「偽りの親」であると判断している、と強く感じざるを得ない。その女性たちは、自分達の主体性を抑圧し、それを偽りで、無理強いされたものにすり替えようと努めなければならないのだから。

河野の、苦痛であるにしても辛辣な小説を読んでいるのと同時期に、私は日本のテレビタレント、ベッキーが(写真上と下)日本のテレビから締め出されていく様を追っていた。ベッキーは、かわいくて、活発な31歳の女性で、日本のテレビや広告のいたるところに出ていた。日本の若い世代にとってのアイドルであり、理想の人であったベッキーであったが、ラインで、27歳の妻帯者のポップシンガー、川谷絵音に送った、不倫をほのめかすメッセージが明るみに出たとたん、日本のテレビ界から締め出されたのだった。(川谷が結婚していたということが、同じ時に明らかになったという、異様な状況であったということも言っておかなければならないが。)

特に欧米のメディアでは、日本のエンターテインメント界におけるマネージャーが、いかにタレントを強く牛耳っているかを物語り、(ベッキーのマネージャーは、彼女が10本もあるテレビのレギュラー番組から外れたほうがいいとさえいったらしい)また女性蔑視の男女間格差をも物語る出来事だとして大騒ぎになった。川谷自身は、彼が「姦通者」であるにもかかわらず(まるで明治時代の話をしているようだが)、彼のキャリアは、同じように影響を受けなかったからだ。

私も同感ではあるが、個人的には、この分析は核心をついていないと思った。私は、単に女性一般に対する日本社会の制約が露見したというだけ以上の事があると思った。

ベッキーは、日本の「かわいい」文化の権化であった。私は去年のクリスマスに、三代目 J Soul Brothersというバンドの7人の男性メンバーが出ている彼女の番組を見ていた。そのメンバーは、みんな20代から30代で、ガールフレンドに送る完璧なクリスマスプレゼントを思いつくように言われた。ベッキーともう一人の女性司会者がその順位を決めることになった。

メンバーの一人が、一緒に泊まっているホテルの部屋に、予期せぬプレゼントとして届くようにとプレゼントを選んだ。するとベッキーは、その漫画のように大きくて美しい目をして、そんなに早く彼女をホテルに連れて行けると思わないで、ととりすまして彼をたしなめたのだ。日本では、付き合っている男女がホテルでクリスマスの夜を過ごすのは当たり前になっているのに、である。一方で、他の二人のバンドメンバーは、東京デイズニーランドのチケットをクリスマスプレゼントとして選んだ。ベッキーも、もう一人の司会者も、それが一番ロマンティックなプレゼントだと言った。

欧米では、デイズニーランドは小学生以下の子供を連れて行くところで、もし30代の男性が31歳の女性、デイズニーランドにデートに連れて行くと言ったら、その男性は、ちょっと変わっているか、あるいはわざと皮肉を言っているかのどちらかだと思われるだろう。しかし日本の「かわいい」文化では、女性は永遠に子供のようでいることが好まれ、デイズニーランドに行くのは、受け入れられる、というだけではなく、理想のロマンティックなお出かけなのだ。

その番組はもちろん、始めから終わりまで「やらせ」だった。ロックバンドの男性メンバーは、女性ファンが数知れず、ホテルの部屋で楽しむことには事欠かないだろう。しかしこのファンタジーの中では、ベッキーは単に出場者というだけではなく、「かわいい」の何たるかを決めるその人なのである。それだからこそ、実際はもっと俗っぽい-つまりは普通の大人の女性-と言う事がばれてしまったら、テレビのパーソナリティを維持することはもはや難しいのである。

しかし私にとっては、ベッキーの出来事は、単にテレビの経営の仕方に関してでも、テレビにおける男女の取り扱いの格差に関してでもなかった。それは、いつもは隠されている、女性が子供のように、うぶにふるまう事を要求する圧力が、あまりにも鮮明に表されたものだった。それをしそこなった時、つまり、ありのままの女性-知的で、自立していて、たまには危ないこともするような-そんな女性になった時、河野の小説「雪」にあるように、女性は比喩的な雪の中にほおり出され朽ちていき、もっと社会の要求するイメージにあった身代わりが、取って代わることになるのだ。

「かわいい」文化に対して、あまり否定的であるように思われたくはない。それはそれなりの魅力があるし、もっと冷笑的で傍若無人な西洋の態度の方がいいと言うつもりもない。しかし、多くの知的な日本人女性は、かわいくあることを常に求める文化の中に閉じ込められていれば、心から思いっきり叫びたくなることだろうと思わざるを得ない。

何かできることがあるのだろうか?現代日本の女性に真に同情し、作られた「かわいい」文化ではなく彼らの真の心の声を聞くためには、日本の女性作家に目を向け、注意深く彼女たちの言わんとしている事に耳を傾ける必要があるだろうと私は思う。その分野でまず読むべきものとして、この奇妙な題名の本、そして女性の、子供としてではなく、複雑な大人として扱われたいという心からの叫びである、「幼児狩り」を推したいと思う。

2016年10月9日日曜日

ゆきゆきて、三島由紀夫電車


日本では、宮沢賢治にちなんだ、岩手県の花巻・釜石間を運行する「銀河鉄道の夜」電車があれば、夏目漱石にちなんだ、道後温泉行きの「坊っちゃん列車」もありあす。

そうすれば、「三島ゆき」の「三島由紀夫電車」があれば面白いと思います。(注: 三島由紀夫の本命は平岡公威で、昭和16年に「三島」というペンネームは三島市から取られたのです。)

アナウンサーは「こんにちは。こちらは三島ゆきの三島ゆきお電車です」というと、旅客の皆さんはきっと笑うでしょう。

2016年10月5日水曜日

やばいって、わからん


15年前、大阪にあったアイリッシュ・パブで、日本に着いたばかりのアイルランド人バーテンダーと、「やばい」という言葉の意味を話したことが記憶に残ります。この言葉はなかなか英語に訳するのは難しいと私がだらだらと言いましたが、率直なダブリン出身の相手は、「いや、そうでもない。英訳すれば、「F*ck that!」という意味でしょう」。私は笑って、なるほど、名訳だと納得しました。

しかし、先日の静岡新聞を読むと以下の文章に出会って、驚きました。

「言葉は流れる水のように常に変わっていく (中略) 「やばい」が登場したのは、10年以上も前。かつては警察に追われた犯人が身の危険を感じた時などに使う言葉だったのが、若い世代が「素晴らしい」「おいしい」など肯定的な意味で気軽に使うようになったとある。当時、すでに10代は7割、20代も半数が肯定的に使っていたそうだから若い人の間では今や肯定的に使うのが一般的のようだ。」

へー、そうなの。10年前の現象だが私には初耳でした。気が付かないうちに、「やばい」の意味が全く変わってしまったようです。考えると、最近、英語の「sick」は同じように否定的な意味(「ひどい」)から肯定的な意味(「素晴らしい」)に変わりました。中世に戻れば、「nice」(気持ち良い)はもともと「恐ろしい」という意味があったそうです。

人間は意味を明確にするために、言葉を使うとはかぎりません。言語の変化は、前の世代の価値観を皮肉っぽく見たり、覆したりする、人間の流動的な精神を表すところもあります。前世代から伝わった言葉を全く違った意味で日常的に使うことに気がつかないでしょう。言葉に不動の意味をつけようとすれば、言語がいかに反抗的に進化する自由を無視する無理があります。

2016年10月2日日曜日

私の「日本文学とスター・ウォーズ」論


初代「スター・ウォーズ」が、日本文化の影響を受けていると言う事は、周知の事実で、今更特に繰り返す必要もないだろう。ジョージ・ルーカスが、1958年の黒澤明の映画・「隠し砦の三悪人」から、貧しい農民が、喧嘩をしながら、お姫様を連れて敵の陣地を通り抜ける、という話の筋を取った、ということはもうすでに自明である。ルーカスはそれを、ずっと昔の、遠い銀河で起こったサイエンスフィクションに仕立て上げ、あの農民たちはC3POとR2D2に、刀はライトセーバーに、そして武士道は、フォースに組み入れられた、というわけだ。

映画と同じほどに興味深いのは、あの映画が、どれほどの様々なことから影響を受け、予期せぬ出来事の仕業もあって形作られてきたことか、ということである。ジョージ・ルーカスは、最初は、ジョーセフ・キャンベル「千の顔を持つ英雄」のような、神話に題材を取った作品に影響を受けた、「フラッシュ・ゴードン」的サイエンスフィクション映画を作ろうとした。筋書きは、何度も何度も書き換えられ、一時は、ルークは父親と、たくさんの兄弟がいることになっていた。それにタイトルは、「ウィルズ記録による、ルーク・スターキラーの冒険」と、なんとも長くなったこともあった。

しかしながら、なんといっても初代「スター・ウォーズ」で一番興味深いのは、オビ・ワン・ケノビが、宿敵(そして自分の元の弟子)ダース・ベイダーと、ライトセーバーで生半可な決闘をした後、負けるに任せてしまった、ということである。この、「任せる」と言う言葉が鍵である。普通の解釈では、オビ・ワンは、ルークと、レイア姫と、ハン・ソロが、ミレニウム・ファルコンに乗って母船から脱出できるように、自分を犠牲にした、と言う事になっている。

でも私は敢えて、そんな解釈は正しくない、と言おう。オビ・ワンの最後の行動は、もっとはるかに計算づくで、意味深いと思う。いったい誰が、オビ・ワンがわざとルークを見てかすかに微笑み、そして自分から死を選んだと言う事に気が付かないことがあろうか。オビ・ワンは、忘却に甘んじるような人物ではなく、ここで死ぬことによってこそ、今までよりさらに強く、若い弟子のルークの心の中に生き続けることができるということを、知っていたのにちがいない。

オビ・ワンが、スター・ウォーズエピソード4「新たな希望」の半ばで死んでしまうという筋書きは、土壇場での書き直しのようだ。もともとは、オビ・ワンは、映画のおしまいまで生き延びるのみならず、2つの続編の中でも主要な登場人物であることになっていた。ただ、ルーカスが土壇場に筋書きの変更をしたのか、あるいはオビ・ワンを演じたアレック・ギネス自身がもう続編に出たくないので筋書きを変えてもらうように提案したのかは、意見の分かれるところである。(後者のほうが、もっともらしいと思うが。)ギネスはこの映画のおかげで、膨大な富を築くことになるのであるが。

この筋書きの変更がどうもたらされたにしろ、土壇場で変更された筋書きと言うのは、映画全体としての意味にとって、きわめて重要になることはままある。

「スター・ウォーズ4」の前半で、オビ・ワンは器用に人の心を操ってみせる。オビ・ワンとルークが、帝国軍に止められたとき、オビ・ワンはいとも簡単にクローン兵隊を操り、まんまと逃げおおせる。ストーム・トルーパーは簡単に操れるが、オビ・ワンが騒がしいバーで、ルークにケンカを売って来た無法者を同じように操ろうとした時は効き目がなく、オビ・ワンはライトセーバーを使わなければならなかった。

オビ・ワンは敵をやっつけるためには、ある時は心理作戦でいけるが、ある時は腕力が必要だと言う事をよく心得ている。しかし、ある者の心を一生の間支配するには、自分自身の命をかけるだけの覚悟がなければならない。あの命を懸けた、かすかな微笑の裏には、さまざまな思いと計算があったに違いない。

この事を思うと、私はいつも、ある有名な日本の近代小説のことを思わざるを得ない。
それは、夏目漱石の「心」である。1914年に書かれた、圧倒的な人気を誇る小説で、朝日新聞で、最近、100周年を記念して全編が連載された。英語には、1956年にエドウィン・マクレランによって翻訳され、2010年には「ペンギン・クラッシック」シリーズにメレディス・マキニーの新しい翻訳が出た。

この小説は、「先生」と呼ばれる少し年上の人物によって翻弄される若い語り手の話である(1955年の市川崑の映画より、語り手が左、先生は右)。「先生」と呼ばれる登場人物は、過去に暗い秘密を持っていることが、後半に描かれるその語り手への長い手紙の中で明らかにされていく。「先生」は、彼の親友Kと自分が学生だった時の三角関係の結果、Kが自殺したことに責めさいなまれていることがわかってくる。Kは自殺することによって、先生の心を墓の下から支配しているわけである。


先生は、自殺によって、残された者の心を支配することができるとわかっているので、同じ影響を行使すべく注意深く機会を待つ。実際、彼は語り手が危篤の父親を介護するために実家へ帰るまで待ってから、自分の秘密と、自殺の意思を告げる。そして語り手が、父親の元を離れ、先生の家まで飛んで行くところで、この小説は終わるのである。先生は、注意深く計画された自殺によって、父と息子の絆よりも深いつながりを、作りあげてみせるのである。

はたしてジョージ・ルーカスが「心」を読んだことがあるか、あるいは市川崑の映画を見たことがあるか、は全くわからないが、ルーカスが支持し、尊敬した黒澤は、他の日本人もそうであるように、漱石の大ファンであった。たとえば、黒澤の1990年の映画、「夢」は、1908年に書かれた漱石の「夢十夜」へのオマージュであった。

この先生の自殺の、攻撃的な性質は、日本の漱石ファンには見落とされがちである。これは、「スター・ウォーズ」の中での、オビ・ワンの、自身を不滅にするための自殺が、高貴な犠牲のためのものと誤解されているのと同じであろう。

もうすでに有名な話だが、アレック・ギネスは、ファンが「スター・ウォーズ」をもう100回以上見たと言った時に、もう二度と見なければサインをあげると言ったそうだ。シェークスピア劇を得意とする、古典的に訓練されたギネスは、「スター・ウォーズ」がシェイクスピアの演劇のように何回も見るに価するとは思わなかったのだろう。しかし皮肉にも、ギネスが演じたオビ・ワンは、墓の下からルークの心を支配し続けた。しかしながら、「心」における先生の場合と同じように、オビ・ワンの最後の行動の本質は、奇妙なことに理解されず、見る者はいつまでも、それは衝動的な自己犠牲であって、抜け目なく計算された、心理的な操作であったとは信じようとしないのである。