2017年3月12日日曜日

武士道ー日本人としてのアイデンティティの目覚め

1945年から52年にかけての、アメリカ占領時代に作られた日本の憲法については、それが日本を「普通の国家」と認めるのを拒否したアメリカの押し付けなのか、あるいは原爆を体験した唯一の国としての日本の立場を反映した、貴重な戦争放棄を宣言するものなのか、意見が分かれるところである。

日本国憲法に関する物議は、1890年代初頭より続いてきた「日本の魂」とは何たるか、についての論争が、またしても現れたもの、と考えられるだろう。日本が、意識的にヨーロッパ国家の憲法をまねた最初の近代的な憲法を公布したのは1889年であった。「武士道」というあまり知られていない言葉が、日本人の特徴を理解する上での鍵として研究論文で最初に使われたのもこの頃だった。この最初の憲法が日本の近代化を宣言したので、武士道に関する理論も、日本が「文明化」した西洋に相応するものと決め込んだ。武士道はヨーロッパの騎士道と英国の「紳士」の慣例に匹敵するものとして発表された。

武士道という言葉は、江戸時代(1603年から1868年)以前には使われていなかったと批評家たちは指摘する。江戸時代以前は、儒教が主で、武士階級に広く当てはまる道徳的慣例は存在しなかった。

1900年に初めて英語で出版された新渡戸稲造の「武士道ー日本の魂」は、この言葉を広めるのに重要な役割を果たした。20世紀を通して、この本は100回以上増刷され、数多くの言語に翻訳された。前アメリカ大統領、セオドア・ルーズベルトは、この本にいたく感銘し、60冊も買って、友達や家族に配ったという。

欧米にとって、「武士道」は、日本に対しての、全く新しい、啓示的な洞察を与えるものだった。この本が出版されるまでは、西洋の日本に関する概念は、中国のそれと同一視されがちだった。たとえば、ギルバート・アンド・サリバンの「ミカド」(1885年)はそのいい例だと言えよう。その中では、日本は、中国語のように聞こえる名前を持った、気取ってふるまう廷臣ばかりがいる女々しい国として表現されていた。新渡戸の本は、それを一変して、日本を、他にはない武士の文化を持つ、男性的で、ダイナミックであるとともに詩的な国として確立したのだった。

最初に出版されてから5年後の1905年までには、「武士道」は大人気を博し、マラーティ語、ドイツ語、ポーランド語にも翻訳された(ポーランド語版は、その扇動的な内容を恐れて、ロシア政府が検閲したが)。フランス語版とノルウェー語版もまもなく出版され、中国語版は、「熟慮中」となっていた。しかし、オレグ・ベネシュ氏が「Inventing the Way of the Samurai」の中で指摘したように、「武士道」はあっという間に国際的なベストセラーにはなったが、日本国内ではそのように熱狂的に受け入れられたわけではなかった。なぜなら、日本国内では、1894年から5年にかけての日清戦争での勝利の後、武士道についての諸々の他の理論が唱えられるようになったからだった。国家主義を主張する井上哲二郎は、新渡戸を糾弾し、天皇を崇拝する、別の形の武士道を確立した。そしてこの概念こそが、最終的に日本に根付くこととなるのである。

新渡戸の本は1908年に日本語に翻訳されたが、彼の武士道の概念が広く読まれ、影響力を持つようになったのは、新渡戸の肖像が五千円札に印刷された1985年以降であった。


1862年に侍の家に生まれた新渡戸は、19世紀後半における偉大なる「ルネサンス的教養人」であった。彼は、著者であるとともに、5つの博士号を持ち、日本語、英語、そしてドイツ語に堪能で、外交官であり、農学の研究者であり、政治家、教育者、そして経済学者でもあった。彼はアメリカとドイツに留学もし、キリスト教徒にもなった。

今日新渡戸の「武士道」を読むと、その文体は古式で華美であると同時に、あの時代の人種差別の慣習から免れていないように見える。しかしながら、この薄い本が、どうして最初に出版された時、あのようなセンセーションを引き起こしたかは、火を見るよりも明らかだ。37歳の日本人がこのように完璧な英語を書くとは、まさに博学の賜物である。

新渡戸は、まず、武士道の概念が、いかに儒教と神道の教え、特に天皇を敬う事、国を愛すること、そして祖先を崇拝すること、といった教えを吸収したか、を説明する(「この宗教、―あるいはこの宗教の表すところの日本人の思い、というべきか-は、すっかり武士道に取り込まれている」)。新渡戸は、武士道の基本は、主君に敬意を払い、忠誠を誓うことにあると説く。中国では、儒教の教えは親に対する服従を人間の根本の義務であると説いたが、日本では主君の方が優先されたわけだ。

近代の江戸時代の研究はすべて、武士階級が発展途上の市場経済をうまく処理できなかったことを指摘している。しかし新渡戸の本を読むと、武士階級が経済音痴だったのは、むしろ彼らの美徳であったかのように思われる。新渡戸は言う、侍にとっては「勘定台とそろばんは忌み嫌われ」そして、「武士階級が商業を営めないようにしたのは、全く称賛すべき社会政策で、そのおかげで富が権力者に集中するのを防げたのだ」と。

新渡戸は、この本の中で、武士道に関する2つの相反する概念を打ち出そうとしている。つまり、武士道を、日本の武道の慣例がいかに日本独自のものであるかと言う事を示すものとして売り込む一方で、それが同時に、世界に通用する理想であると唱えているのだ。これはおそらく、19世紀の帝国主義の世界に遅ればせに加わった日本としては、西洋の真似をしているだけの2級の国だと思われたくなかったからだろう。日本にとっては、日本が独自の非常に洗練された道徳観を持ち、西洋と同等に競争し、挑戦することができると言う事を見せることが重要だったのだ。「武士道」は、暗にこの骨組みを提供したのだった。この本を読んで、世界の秩序が変わっていくだろうことを感じ取った者もいただろう。

20世紀は、19世紀とはかけ離れたものになっていくのだった。新渡戸は、キリスト教とは違う唯一の道徳観として武士道を打ち出した。しかも資本主義の正統性に挑戦しうるものとして。新渡戸は言う、ローマ時代の禁欲主義と同じように、武士道は「社会体制としては終わったが、美徳としては今も生きている。」と。

新渡戸の「武士道」が世界中で大いに受け入れられたと言う事は、日本人にとって誇りとなったが、日露戦争(1904年から5年)における勝利とあいまって、日本で20世紀初頭に受け入れられた武士道の解釈は、皮肉にも新渡戸のものよりもはるかに排外主義的で、人種的偏見に満ちたものなのであった。

「武士道ー日本の魂」は、新渡戸が古き良き時代に対する思いを掘りおこして書いたのかもしれなかったが、1930年代に移って行くにつれ、日本は侍の慣習を、狂信的で自己破壊的なものとして解釈し始めることになるのである。(続く)

2017年2月12日日曜日

「京都漱石の會」との出会い


一昨年の10月、私は突然、丹治伊津子さんという女性からメールをもらった。丹治さんは「京都漱石の會」の会長で、年に2度の定例研究会で、漱石に関しての講義をしてもらえないか、というものだった。私は、そんな「會」があったとは知らなかったし、特にこの「會」が、東京ではなく京都で運営しているということに興味を引かれた。丹治さんは、来年の講義の前に、定例研究会に下見にいらっしゃいませんか、と誘ってくれた。

その会合は、京都市美術館で行われていて、私は11月の雨の降る日に、まだ時差ボケに悩まされながら、そこにたどり着いた。丹治さん(写真中央、上)は、午後の2つの講演の前に(これは、著名な名誉教授2人によるものらしいが)、美術館の敷地内にある茶室で茶事があり、その後昼食になる、と教えてくれた。

私は今まで、漱石と茶事とを関連付けたことはなかったので、これにはいささか驚いた(実際、1906年に書かれた『草枕』の主人公は、お茶会の気取ったやり方をばかにしていたが、これは漱石自身の気持ちを反映したものだろう)。それに個人的にも、茶道の威厳と細々とした所作を楽しむには、いくらか不格好なうえに忍耐強くもないので、いつも遠慮してきたのだ。



さて、茶事は、思った通りに滑稽な結果となった。まず何といっても、正座で長く座り続けることは不可能に近く、すぐに足をくずさなくてはならなかったので、楽といえどもだらしのない格好になってしまった。すると、上品さを取り戻そうとするかのようなむなしい願いからか、小さい金属のスツールを出してきてくれたのはいいが、残念ながら、その椅子はあまりにも小さくて、子供部屋で熊のぬいぐるみを置くにはいいだろうが、とても90キロのイギリス人には無理だった。その椅子に座ったとたん、私はその椅子の足が壊れて私のお尻の下でぺったんこになってしまいそうな気がしたが、もうこれ以上無様になりたくなかったので、6畳の茶室でお茶が優雅にゆっくりとたてられているのを眺めながら、少なくともゆっくりと壊れていってくれるように願った。

しかしながら、主催者であり、茶道の愛好家である丹治伊津子さんの事はすぐに気に入った。丹治さんは、京都の感性を体現した人だった。着物を着て、英語は一言も話さないと公言し(しかし、丹治さんは教授であるご主人といっしょに、しばらくケンブリッジに住んでいたと後でわかった)、優雅さと洗練さを持ち合わせている一方で、率直な話し方とこだわりのないユーモアのセンスも兼ね備えた、まれにみるご婦人であった。最初から、私たちの会話には笑いが絶えなかった。


茶室(写真上)の周りの庭を雨が濡らすのを見ながらお弁当を食べているうちに、いくらか茶事でのトラウマから回復した。それから美術館の外で尾形光琳の展覧会を見ようと並んでいる大勢の人のなかをすり抜けて、午後の2つの講演が行われる広い講堂にたどり着いた。最初の講演者は芳賀徹氏、東京大学の元学長で、数多い著作の中で漱石と美術品に関する分厚い本もしたためた人である。90年代に私が大学院生だった時、その本の何章かを読んだことがあったので、芳賀氏の漱石と絵画についての講演は、私がもうすでに知っていたことを思い出させるものであった。2つ目の講演は、京都大学の興膳宏教授で、漱石と漢詩についてのものであったが、漱石についての全く新しい考察と、私が今研究している現代文学とを結びつける、大変刺激的な講演内容であった。

私は、この「會」の会員が、いかに多く、そして熱心で、お互いに親密であるか、ということに興味を引かれた。多くは、この「會」に出席するために日本中からはるばるやって来ていた。講演の後で、私は、道を隔てたハイアットリージェンシー京都の個室で開かれた、15人ほどのこの「會」の幹部の集まりに招待された。私は、大きいテーブルをはさんで、主催者の丹治さんと、二人の講演者と向かい合って座り、すぐに話し始めた。

素晴らしい食事が次から次へと、まるで永遠に続くかのように供され、お酒も何本も空になった。丹治さんは、私の漱石に関する2冊の日本語の本を、両方読んでいただけでなく、ところどころでは私自身よりももっと、その内容を覚えているように見えた。私は、飲み込みが遅いのと、二人の講演者にばかり注意を払っていたのとで、私の両横に座っている人達とほとんど話さなかった。私は、彼らは単に京都に住んでいる漱石ファンなのであろうと思っていたが、宴会が始まってから2時間ぐらいしてやっと、私の左側に座っていた人に話しかけた。彼は、この「會」の副会長であった。私は、漱石のどんな点に興味がおありですか、今まで何かそれに関して書かれたことがありますか、とありふれた質問をした。おそらく会誌に何か書いたことがあるぐらいだろう、と思いながら。すると、実は彼は、漱石に関する本、『夏目漱石「こころ」を読み直す』、『漱石と仏教』、『漱石と落語』、『夏目漱石と戦争』、そして私がずっと読みたいと思っていた、『漱石と京都』などの5冊の本を出版した、水川隆夫氏であるということが明らかになったのだった。


そうか、ようやく私にもわかってきた。このテーブルに座っている人たちはほとんど、漱石に関する本を出版した人たちだったのだ、ということが。あの小津安二郎監督に関する本を書いたという末延 芳晴氏とも話をしたが(その本を彼は私にくれたのだが)、うちに帰ってから本棚を見てみたら、私がすでに読んだことのある、漱石とロンドンについての分厚い本は、なんと末延 氏によるものだったのだ。私は単に熱心なアマチュアの集まりに来ているのではなく、ドクター フー的に言うなら、惑星ガリフレイを牛耳る、タイムロードの協議会に参加しているようなものなのだ、ということを、やっと理解した。つまり、この「會」は、漱石研究者の世界においての、内なる神聖な神殿であったのだった。

何時間も続いた宴会とおしゃべりの後(実際、あまりに長くて丹治さんはテーブルで居眠りをしていたが)、みんなでホテルのロビーに行って、記念写真を撮った(写真上)。まるで疲れ果てた中年のグループのように見えたが。

一か月後、イギリスに戻った時、丹治さんから正式の招待を受け取った。去年の4月、京都の平安ホテルで行われる定例研究会での講演依頼だった。私はそのタイミングはあまり都合がよくないと言った。オーストラリアで予定があって、子供たちと一緒にタスマニアにいるかもしれない…… すると、丹治さんはそんな私の逃げ口上はものともせず、こう言った。じゃあ、ご家族をオーストラリアにおいて、ご自分一人で来られたら?

実際、私がどうしてこの権威ある漱石研究者の会に出席することを断ることができようか。そういうわけで、私は去年に4月に、「世界の二大文豪、夏目漱石xウイリアム・シェイクスピア」と銘打った講演をすることになった。去年は、夏目漱石の死後100周年であるとともに、シェークスピアの死後400周年でもあったのである。

その講演会の後、京都市北野天満宮東の「おかもと紅梅庵」で、夕食会が行われた。水川隆夫氏、末延芳晴氏、西村好子氏、綾目広治氏という、著名な評論家たちが、会長・丹治伊津子氏、そして書道の先生・小阪美鈴氏、京和泉社長夫妻、ボストン大学の日本文学教授サラ・フレデリック氏という友達とともに、参加してくれた。


もしこの一時間のトークをお聞きになりたければ、下のリンクをクリックしていただきたい。

https://www.youtube.com/watch?v=DWqMSlZAbkQ


2017年1月6日金曜日

もし日本の文学作品の中から、100回読むに値するものを選ぶとしたら

去年、ガーディアン(イギリスの大手一般新聞)で、作家のステファン・マルシェ氏が「Centireading」(百回読み)という言葉を作って、同じ文学作品を100回読む事の功罪について話していた。これを読んで私は考えた。もし日本の文学作品の中から、100回読むに値するものを選ぶとしたら、何を選ぶだろうか?

2,3回読み直してみたい作品ならたくさんある。たとえば「平家物語」や、谷崎潤一郎の「細雪」とか、江戸川乱歩の作品などが頭に浮かぶが、100回、となると….. 5回読むのでさえ、「源氏物語」のような大長編や、現代の小説はお断りである。

それなら答えは一つしかないと思った。夏目漱石が1906年に書いた、「坊っちゃん」である。「坊っちゃん」なら、100回読んでも絶対飽きないと、断言できる。実際、毎回、きっと何か新しいことを得ることができると思う。その理由を説明しよう。

まず最初に、何といっても読みやすい。100回も読むなら、読み進むのに難しすぎるものや、長ったらしくて、校正が必要なようなものは御免こうむりたい。一つ一つの言葉に意味があり、やめられない面白さがあるものが必要だ。「坊っちゃん」なら、最初の文から興味を引かれ、最後までわくわくしどうしで、読み終わったとたんにまた最初から読みたくなる。何度でも、何度でも。

「坊っちゃん」がこんな風なのは、それが書かれたいきさつにもよるだろう。漱石はこの小説を、教師を3校掛け持ちしていて、帰ってきたら4人の小さい子供が待っている生活の中で、暇を見つけては、2週間足らずで書き上げたのだった。その翌年には、教師をやめて、朝日新聞のための専属作家となった。しかしこの1906年に書かれた傑作は、まるで止めることのできない火山の噴火のように、彼の中から湧き出たのであった。

二つ目の理由は、「坊っちゃん」は、ウディ・アレン氏の言葉を借りるなら、「フルコース」のディナーであるということだ。100回も本を読むなら、どのジャンルの本がいいか?コメディ、諷刺もの、それとも自叙伝、それともエレジー?「坊っちゃん」は、このようなすべてのジャンルの要素を組み合わせたものと言えるだろう。

この作品は、日本文学の中で一番面白いコメディだと思われているだろう。実際、坊っちゃんが地方の方言で苦労するとか、それに対して自身の東京人のべらんめえ口調で応答するとか、あるいは生徒がいたずらで布団の中に入れたイナゴと格闘するとか、大声で笑えるようなシーンがたくさんある。

しかしながら、「坊っちゃん」の中には悲劇的な要素も多々あるということに、たいていの人は気づかない。母親のような、年を取った女中で、東京に置いてきた清に対する慕情が、その中心である。小説の最後で、坊っちゃんはアイデンティティの危機に陥り、彼の無鉄砲で自由奔放であった短い時期は終わりを遂げるのである。

しかし「坊っちゃん」はこれだけではない。それは、明治維新の後起きた、将軍側についた者たちと、旧体制を打ち破った者たちとの間の不和を諷刺したものである。そして、坊っちゃんが赴任した中学校の教師たちにつけたあだ名も、東京帝国大学での、漱石自身の傲慢な同僚たちを諷刺するためのものだった。

松山と近くの道後温泉は、漱石が若い時に1895年から96年にかけて教師として教えていた場所で、この小説の舞台だと考えられていて、今日まで旅行者が絶えない。しかし、漱石の自叙伝のもっと違った部分も、この小説のところどころにさりげなく織り込まれている、ということに気づく人はあまり多くはない。たとえば、坊ちゃんが遠い東京にいる清をなつかしむ様子は、実は漱石が1900年~1902年にかけてイギリスにいた時、日本にいる彼の妻、きよ、に会いたくて仕方がなかったという経験をしたことの反映である。

そして三つ目の理由は、際限のなさだ。もし同じ本を100回読むとしたら、その本は、読みやすく、「フルコース」であるだけでなく、ほんのちょっとした事が実は深い意味を暗示していて、何度読み返しても際限なく新しい洞察を提供してくれるものでなければならない。たとえば、坊っちゃんが子供の時、その栗の実が「命より大事だ」ような栗の木の意味は何か、とか、どうして宿敵、赤シャツは、いつも赤いシャツを着ているのか、とか、坊っちゃんとその仲間の山嵐が赤シャツに最後に挑む時、「天誅党」と銘打ったのがなぜそんなに皮肉なのか?など、など。

「坊っちゃん」は、結局、現代の世界そのものの話だと言えるだろう。坊っちゃんは、誇りある士族の子孫で、田舎者を侮蔑しているが、東京と田舎との間で近代化に差があるのは、日本が近代化し、西洋化しようとしている過程の産物そのものであると言う事に気づいていない。「坊っちゃん」は、普遍的な状況を語っているのだ。我々は、我々の洗練さと近代性を誇りに思うが、結局はもっと寛容で、優しかった、古き良き時代のイメージを拭い去れないのだと。

本当に、私が無理なく100回読み返せる本は、「坊ちゃん」しかないと思う。まだ読んだことがないとしたら、少なくとも一度だけでも、読んでいただけるようにお願いしたいものだ。



2017年1月4日水曜日

アーサー・ウェイリー賞を提案する


私は、いつも文学の持つ力を強く信じている。たとえそれが、往々にして目に見えない力だとしても。時折、本の世界が人間界の事件に介入して、明白で重要なメッセージを送ってくれることがある。

東アジアの国々の間で、政府間の怨恨がいよいよ深まっていくのを、私たちは失望の念を持って見守って来た。中国、日本、そして韓国との間の疑惑と相互蔑視の関係、そして言うまでもなく、ベトナムやフィリピンにまでも及ぶ緊張した情勢、あるいは北朝鮮との間の膠着状態など、とどまるところを知らない。

ここで私は、新しい文学賞を創設することで、東アジアの国々の相互関係を改善することができるのみならず、世界中で東アジアの文化をもっと理解してもらえるようになる、と提案したい。

私が何を言わんとしているのか、少し説明しよう。

日本研究の分野では、日米友好日本文学翻訳賞と呼ばれる賞があるが、これは西洋における日本文学研究者に与えられる文学賞である。

私は過去(2005年)にその賞をいただいたので、先日、その賞に推薦すべき新しい作品があるか、というメールをもらったが、その賞の受賞資格に、見逃せない変化があることに気づいたのである。すべての候補者は、アメリカ人でなければならないと。以前は、私のようなイギリス人を始め、カナダ人、オーストラリア人など、英語圏の研究者なら誰でもその賞をもらえたというのに、今や必ずアメリカ人でなければならないというのだ。

確かに、「日米友好関係」というのだから、そもそもアメリカ人でない者でももらえる、というのは奇妙かもしれないが、しかし、アメリカ人に限定するというのは、私には時代に逆行しているように思えた。この賞を、英語圏の誰にでも授与するというのは、アメリカが英語圏における主導者であることを大胆に自信を持って肯定し、それとともに文学は国境に妨げられるものではないと言う事を承認しているように思えたというのに。

この賞の理事会が、このような狭量な措置を取ったことを嘆いたが、しかしこの事のせいで、これはもしかしたら、新しい賞を創るいい機会かもしれないと思い始めた。単に最も優れた翻訳にのみ賞を授けるのではなく、歴史ものであろうと批評であろうと、一般の読者に、日本に対する新しい洞察と理解の仕方を提案する本のための賞があってもいいものだ、といつも思っていたのだから。

その賞の名前は、もう決めていた。「アーサー・ウェイリー賞」だ。

アーサー・ウェイリー(1889年~1966年、ロジャー・フライによるポートレート、上)はイギリス人で、おそらく日本と中国の文学の最も優れた研究者であると言えるだろう。彼は、源氏物語を英語に翻訳し(原文と、ウェイリーの翻訳本の表紙、下)、イギリス人の小説家、ブァージニア・ウルフからアメリカ人の詩人、エズラ・パウンドにいたるまで、様々な人々が彼の日本、そして中国の有名な作品の詩的な翻訳を読んだ。あの偉大なる日本文学者、ドナルド・キーン氏は、彼の長い人生の中で、世界中の一流の知識者や作家に会ってきたが、真の天才は二人だけだった、と言った。一人はアーサー・ウェイリーで、もう一人は三島由紀夫である。キーンは、日本文学に専念することで、「アーサー・ウェイリーの半分ほどにでも」なりたいものだと言った。



ウェイリーは、イギリスが生んだ学者の中でも一、二を競う偉大なる学者であるにもかかわらず、ほとんどイギリスで知られていないので、この賞を創ることで彼の不朽の業績を讃えることになるだろう。

しかしながら、私は考えた。「アーサー・ウェイリー賞」が、日本に関する本だけに与えられるのは、何かおかしくないか?ウェイリーは、中国の優れた作品における功績でも同じように知られているのだ(作品の例、下)。中国に関する本も、この賞に含まれるべきではないか?


最初、私はそうすることに躊躇して、これでは個別の文化をひとまとめにして「東洋文化」と呼んでしまう古いやり方と同じではないか、と思った。しかし他の視点から見てみると、ウェイリーがした事は、今日の世界があまりにも必要としている事だ。つまり、中国と日本とがいかに深く関わっているか、そしてお互いに影響しあってこそ文化的に業績を成し遂げたのだと言う事を承認することだ。

これはよく知られている事だが、ウェイリーは中国と日本の文学作品の研究者であったにもかかわらず、中国にも日本にも一度も行ったことがなかった。ウェイリーは、現代の政治的権力の移り変わりには関心がなく、彼を魅了したのは、日本と中国の不朽の文化的遺産と、それが世界にもたらした影響であった。

だからその賞は、韓国も東南アジアも含んだ、東アジアにおける相互の文化的関係を讃えるものであるべきだと私は思う。偉大なる芸術は、一過性で、くだらないことが多い政治的な揉め事を超越するものだと言う事を、明示する賞でなくてはならない。そのような賞なら、東アジアの文化全体が連帯している事、そして密接に関連している事を示すのみならず、東アジアは西洋の人々にとって、重要であるにもかかわらずいまだに全く理解されていない地域だと言う事を認めるものとなるだろう。

それ故に私は提案する。アーサー・ウェイリー賞は、一流の作家、研究者やジャーナリストからなるパネルによって選ばれた、東アジア文化についての洞察と、より深い理解を提供する事柄について、英語で書かれた本に毎年与えられる賞であるべきだ、と。優れた文学の翻訳から、歴史ものや、批評にいたるまで含まれるべきで、単に学術的な作品にとどまらず、学術的な研究を一般の読者にも広く読まれるように書いた本も含まれるべきである。なぜなら、これこそが、アーサー・ウェイリーの提唱したことであったからだ。

その賞には、誰でも応募できて、毎年の授賞式には、中国、日本、そして韓国政府の代表も出席すべきである。

賞そのものは、東アジアの国の政府による様々な文化的財団から寄せられた基金で一万ポンド(おおよそ150万円)もあれば、その分野での主要な賞として認められるようになるのに問題ないだろう。私自身としては、アーサー・ウェイリーという名前と結び付けてもらえたという事の方が、実際の金銭的な賞よりも有難いと思うが。

アーサー・ウェイリーが究極の詩人、そして研究者であると言えるのは、彼の並外れた興味や知識の広さ、それに彼が自分の発見したことを広く世間に伝えようとした態度からだけではなく、彼の人生の過ごし方そのものにもよるのである。彼は50代後半になるまで、どの大学にも所属しておらず、若いころは大英博物館で古代の美術品の管理者として働き、40歳にして作家として独立した。中国語、日本語は(それにアイヌ語やモンゴル語にいたるまで)独学で勉強した。彼は大学の補助金や奨学金の恩恵を受けることは全くなかった。彼はひとり孤独の中で働いたのだが、壮大な展望を持っていたのだった。


いまだにその業績が認められていない詩人や研究者がいることだろう。彼らは大学に属していないかもしれないし、アメリカで生まれなかったかもしれない。アーサー・ウェイリー賞は、我々が東アジアが共有する文化的遺産をよりよく理解するように尽力した、そのような人達の努力を讃え、公にするものとなるだろう。私は、そのような賞は、東アジアの国々が、お互いが共有するものがいかに深いかと言う事を理解する事に、少しながらでも重要な役割を担うのではないか、と思うのである。


2016年12月24日土曜日

夏目漱石、アイルランドのイースター蜂起、そして中国の冷戦


今年の4月24日は、1916年にアイルランドで勃発したイースター蜂起の100周年であった。イースター蜂起とは、1000人にも及ぶ愛国者がダブリンを始めとするさまざまな場所で、主要な建物を攻撃して、アイルランド共和国の樹立を宣言した事件である。アイルランド共和主義者は、一週間にわたって抵抗したが、イギリス軍の優位さに押されて、降伏した。この蜂起で、450人以上が死亡し(ほとんどが市民)、何千人もの負傷者が出た。イギリス政府は、第一次世界大戦で中央同盟国との苦闘の真っただ中であったが、この蜂起に対して3500人を逮捕し、蜂起の指導者達16人を処刑するという対応をした。

この蜂起は、今まで、失敗したとはいえ、特にイギリス軍が指導者を処刑したことから、世論を味方に引き付け、アイルランド国家主義を刺激し、過激化することになったと解釈されてきた。イギリスの支配に対する過激な抵抗は、1919年から21年までのアイルランド独立戦争となって再び勃発し、とうとう1922年にアイルランド共和国が創設されたのである。それ以来、イースター蜂起は現代アイルランドの建国神話の一部として語られている。このことは、1916年の独立宣言のコピーが世界中のアイリッシュパブに飾られていることから見ても明らかであろう。

私は、普通なら、アイルランドの歴史にどっぷり浸かるよりも、遠く離れた土地からアイルランドにエールを送りたいと思うところだ。しかしながら、地球の反対側に行ったら、自分の(あるいは自分の祖先の、と言うべきか)故郷に対する新しい洞察を得ることになったという、あまりにも興味深い体験をしたので、今回は日本文学を研究することで、表面的には全くつながりがないように見える1916年のイースター蜂起に関する思いがけない洞察をいかにして得られたか、と言う事について書いてみたいと思う。

アイルランドの最初の指導者、エイモン・デ・ヴァレラ(写真左)は、アイルランドを、農業を営み、質素で、カトリック教会に服する国、として再構築した。この姿が、イギリスの抑圧を払いのけた後のアイルランドの本来の姿であるはずだった。しかしながら、もし、他の自由を愛するビジョンが前に出ていたなら、1920年代のアイルランドにはもっと様々な可能性があったはずだった。多くの人が、アイルランドが、外部から取り残された田舎ではなく、現代的なユートピア、進歩的な理想を世界にしらしめす所であってほしいと望んだ。実際、この「別のアイルランド」は、1916年の蜂起から100年経った今になってようやく、実現され始めている。次々と起きたカトリック教会の神父による性的虐待スキャンダルのせいで、カトリック教会の権力は地に落ち、新しい自由が芽生える土壌が生まれた。同性愛者同士の結婚を許すべく、改憲することに賛成した住民投票がひとつの転機であり、デ・ヴァレラもさぞかし墓の中で驚いたことだろう。

従来の民族主義からの解離と同時に、1916年の蜂起そのものも真価を問われている。2年前、前首相のジョン・ブルートンは、敢えて、皆が言いたくても言えないこと、つまり、1916年の蜂起は実際に必要だったのか、と演説の中で問うたのである。アイルランド自治法は、すでにイギリス国会で承認されており、今や施行されんとする時に第一次世界大戦が勃発したために、戦争が終わるまで延期されてしまった。かといって、本当に、450人の命と、何千人もの負傷者を出す価値があったのだろうか? ましてや、その後何年にもわたってお互いを殺しあう内戦に陥ってしまう結果となったのだ。もう少し待っていれば、自治政府が平和的に実現されたかもしれなかったというのに。

ブルートン氏(写真右)は、1916年の指導者たちの「真摯さ」は決して疑わないと注意深く付け加えたが、歴史学者の中には、後には「殉教者」として認められることになる、あの指導者たちの目的について、明らかに批判的な者もいる。私は、1916年の蜂起の背景についてや、アイルランド民族主義者の目が回るような複雑な関係をそれほど知っているわけではないので、なにもコメントはできないが、それでも、この議論には、確かに重要な側面があると思う。実際、それは第一次世界大戦全体の理解にも関わるのであるが、全く無視されている。ここで、私は日本文学という思いがけない分野に目を向けると、非常に得るところが大きいと提案したいのである。

1916年の初め、日本の偉大なる小説家、夏目漱石は、「点頭録」という連載を朝日新聞に載せていた。日本は連合国の一員として参戦し、ドイツの極東における植民地を攻略したとはいえ、第一次世界大戦ではそれほど大きな役割を担ったわけではなかった。しかしながら、漱石が、有名な作家であり、朝日新聞の専属作家であったにもかかわらず、戦争に関してほとんど何も語っていないのは驚きである。漱石にとっては、ただいつも通りで、1916年の12月に予期せぬ死を遂げるまで小説の連載を続けていた。

「点頭録」の中で、漱石はまた「大戦」が勃発した(日本は、1904年から5年まで、日露戦争を戦ったところだったので)と言い、どちらかと言えば別に重要でもないような事、つまり、イギリスが徴兵制を始めるらしい、と言う事について述べている。漱石は、ドイツがこの戦いにおいて思いがけず手ごわかったようだ、と言い、それに対抗するために、イギリスは独自の伝統である有志による軍をあきらめ、ドイツ風の徴兵制を適用せざるを得なくなった、と言った。そして、この点において、ドイツは戦争に勝っていると言える、と言った。

普通に解釈すれば、漱石は(写真下)単に第一次世界大戦がいかに重大であったかと言う事を理解していなかった、ということになろう。そして、日本は実際の戦争の舞台からは遠く離れ、その役割も小さかったし、ましてや漱石は戦争の半ばで死んでしまったのだから、それも無理なかろう、と。


しかしながら、その解釈は間違っている、と私は言いたい。実は、漱石の観察眼は驚くべき程鋭かったのである。世界中で、第一次世界大戦の記念式典が開かれているというのに、この「徴兵制」という肝心の問題については、どこでも触れられたことがないのは、全く不思議なほどである。この問題は、イギリス帝国の歴史においての重大な分岐点を理解するうえで、必要不可欠であるにもかかわらず。

今日ではすっかり忘れ去られているが、1916年までは、イギリスは第一次世界大戦の対戦国の中で唯一、徴兵制に頼っていない国だったのである。実際、その歴史の中で、海軍力を誇る大英帝国は、徴兵制に頼る必要がなかった。王と国の名の元に、喜んで命を投げ打つ有志達に頼れることを誇りとして来たのである。実際はどうであったにしろ、大英帝国は、文明と高尚な理想とによって鼓舞された、貴族階級の紳士のクラブと見なされていて、そこでは、「原住民」は面倒を見てもらっているのであって、強制され、利用されているのではない、ということになっていた。この旗の元の自由と「共通善」という概念を共有する帝国のメンバーがいてこそ成り立っていたのだ。

徴兵制は、それをすべて永遠に変えてしまった。オーストラリアの首相、アンドリュー・フィッシャーは、1914年9月に、戦争でイギリスの味方をするかと聞かれた時、「最後の一人、最後のシリングに至るまでイギリスを守り抜く」と宣言したが、それは、オーストラリア人が帝国のために自分から命を捧げるつもりがあることを前提にしたものだった(募集用のポスター、下)。しかしながら実際は、1916年にオーストラリア政府がイギリスの圧力から徴兵制を導入しようとしたとき、国民投票によって小差ながらも拒否された(そして1917年に再び、今度はもっと大差で拒否された)。オーストラリア人は、今日も、その建国の基盤の一部としてガリポリにおける戦闘を忘れていないが、イギリスが徴兵制を無理強いしようとしたことは、それと同じぐらいに重要な事であると言えよう。「母国」のために死ぬ覚悟はできているか、と考えること以上に、自分と「母国」との関係を深く考えさせることはないだろうからだ。


同じことはカナダについても言えよう。カナダでは、1917年に徴兵制を導入しようとした時、暴動と反対運動がフランス語圏のケベックで起きたのであった。

アイルランドでは、徴兵制の問題は決定的だった。戦争が終わるまでアイルランド自治法の施行を延期すると言われたところまではまだいいが、イギリス政府は、アイルランドが徴兵制を受け入れれば、それを施行すると言い出したのだ。もちろん、イギリス政府にしてみれば、ドイツの徴兵された500万の軍に相対するために、たった10万の軍しか送れなかったのだから、大規模な徴兵が必要不可欠なことはあまりにも明らかだった。アイルランド人は、そして、カナダ、オーストラリア、そして大英帝国のあらゆる所で、多くの人々が進んで戦争で戦うことを買って出た。(もし進んで、でなければ「冒険」あるいは「仲間意識」という考えにつられて。)しかしアイルランド民族主義者にとっては、アイルランド自治法が施行されるまでは戦争を部外者として眺めているつもりだったのに、1916年に徴兵制がいよいよ導入されそうになってくるのを見て、「蜂起」せざるを得ないと思うに至ったに違いない。

私は、イギリス政府が蜂起の指導者たちを処刑したことがアイルランド民族主義を過激化したのではなく、実際は、1916年に徴兵制を導入しようとし、その上1918年にはルーデンドルフー(ドイツの指揮官)の春季攻撃で敗れた後、一層深刻に人手不足となり、再び徴兵しようとしたことのほうが、アイルランド人を独立の要求に駆り立てたのだと主張したい。

漱石の、1916年に何が起こっているのかについての洞察は、あまり意味のない事を語っているどころか、大英帝国の衰退そのものを鋭く予言していたのである。それ以後は、大英帝国は、土地を奪うために強制的に、ではなく、自由を守るべく有志によって成り立っているという神話の元には二度と軍事行動をとれなくなった。実際、オスマン帝国が敗れた後で、イギリスとフランスの間で秘密裏に中東を分け合ったサイクス・ピコ協定が結ばれたのが1916年であったというのも重要である。イギリスは、1914年にドイツのベルギーでの残虐な行為に憤激して、文明と自由をドイツの侵攻から守るべく参戦したのに、すでに1916年には、ドイツ流の戦争のやり方を倣って、帝国の拡大のために乗り出したのだった。そしてその過程で、帝国の主張した理想は、もはや致命的に葬り去られてしまった。

私はこの漱石の洞察が、今の日本の状況を分析するのに役立つと思う。第一次世界大戦のような実際の戦争ではないにしても、日本は今中国との間で、お互いがお互いに疑惑と敵意を抱く「冷戦」に直面している。日本では、中国から自らを守るために、軍隊を持つことを禁止した平和憲法を改革すべきかどうかという議論が何年も続いている。

中国がいよいよ強引になって行く一方で、日本を守るべきアメリカの権威が落ちているように見える今日では、この憂慮はほおっておけない。平和憲法は、そもそもアメリカが無理やり押し付けたものだ、という人々も多い。

しかしながら、漱石の洞察によれば、日本が自身の憲法までをも中国の脅威によって変えなければならないということは、とても「自然な」展開であるとはいえない。そしてその意味においては、漱石風に言うなら、中国はすでに「勝っている」と言えるのではないか。第一次世界大戦で大英帝国がドイツと戦った時に経験したように、そのような変化は、本来の目的を果たすことができるかもしれないが、全く予期していなかった、自滅的な結果をも長期的にもたらすことになりかねない。

私は、1916年のイースター蜂起の100周年にあたって、もう一度そもそもの原因に目を向けるべきだろうと思う。狭義の国家主義的な見方に捉われるのではなく、世界中で起きている事との関連を探り、それが今日起きている政治問題についてどのような洞察を与えるかと言う事について考えてみるべきだろうと思う。

2016年11月29日火曜日

司馬遼太郎、「風と共に去りぬ」、そしてアイルランド


今年の初め頃だったか、小説家の水村美苗氏と、その著名な翻訳家、ジューリ・カーペンター氏が、ブラッドフォード文学際に出るためにイギリスにやってくると、たまたま耳にした。それで私は、今私が修復中の、ジョージ王朝様式の屋敷を見てもらおうと、彼らを招待した。その時、「アイルランド紀行」という、日本の歴史小説家、兼、旅行作家の司馬遼太郎(1923-96年、写真上)の本を読むように薦めた。

司馬遼太郎は、「竜馬がゆく」が2100万部、そして「坂の上の雲」が1500万部売れた、大変人気のある作家である。実を言うと、私はどちらも読んだことがないのであるが、彼の「街道をゆく」に収められている膨大な量の紀行文に興味をそそられた。「街道をゆく」には、日本国内のみならず、海外の旅行先の事も描かれている。

1980年代の終わりに書かれた「アイルランド紀行」は、その題名とは裏腹に、その2巻のうちの1巻のほとんどは、ダブリンにわたる前に、ロンドンやリバプールでぶらぶらしていた時のことについて書かれている。彼は、アイルランドの歴史を正しく理解するためには、まずイギリスの歴史と対照させて理解しなければならないと言う事を知っていた。彼は、ケルト人の氏族社会と、英国の中央集権国家との違いについて考察し、そのせいでアイルランド人は侵略されたり服従したりしやすい一方、彼ら独自のアイデンティティは失う事がないと論じた。

この本で興味深いのは、日本人の作家が、どのようにイギリスとアイルランドを見ているか、ということである。たとえば、彼は、ロンドンのウエイターは、いつも彼に「Sir」と言うが、ダブリンでは言わないと言っていた。彼の観察はあまりに新鮮で、時々はその観察が、洞察力があると言えるものなのか、あるいはばかばかしいだけのものなのか、わからなくなるほどだ。リバプールでは、彼は、リバプールがマーシー川の流域にあるので、「リバー プール」という名前が付いたのではないか、と言っていた。(実際はRiverはRで、LiverpoolはLであるが、日本語ではRとLの区別がないので、そうも思えるかもしれない。もちろん英語が母国語の私には、思いつきようもないことである。)

司馬遼太郎が、とうとうアイルランドの西部とファミン(飢饉)と名付けられた道とにやって来た時、彼は、下に広がる海を眺めて、海には魚がいて、海藻もあるのに、どうしてそんなにひどい飢饉になったのだろうか、と言っていた。ばかな意見だ、と言えるかもしれないが、これは日本とアイルランドという二つの島国の、あまりにも違う食文化の伝統を際立たせるものであろう。アイルランドでは、ジャガイモがすべてで、魚はめったに食べない肉のお粗末な代替物だといつも思われていた。ましてや1850年代には、今では人気のSeaweed wrapもまだ発明されてはいなかったし。

司馬遼太郎は、特にアイルランドの文化が世界に及ぼした影響に興味があり、たとえばあの偉大なるジョン・フォード監督のルーツがアイルランドであることを論じた。ジョン・フォードは、両親の出生地であるアイルランドのゴールウェイを訪れ、「静かなる男」(写真左、ポスター)という映画を1952年に作ったのである。

これはよく知られている事だと思うが、土着のアイルランド人とイギリス人の移住者との関係において、アイルランド人が自分たちの土地をイギリス人に奪われたという悲しい記憶の疼きが、19世紀にそのまま新世界であるアメリカやオーストラリアにおいても繰り返されたのだった。17世紀にアルスター(アイルランド北東部)にイギリス人の居住地ができてからというもの、土着のアイルランド人は、地味の悪いアイルランド西部の沼地へと追いやられ続けてきた。そしてそこで、さらに土地を奪われ、飢饉に見舞われて、19世紀に大勢が移民したわけだ。

アイルランドで土地を奪われたという苦い経験は、アメリカやオーストラリアに移住したアイルランド人の記憶の中に長く残り続けた。今日、私たちがもっとも典型的にアメリカ的、あるいはオーストラリア的、と思う話は(たとえば、アメリカ、リンカーン・カウンティのビリー・ザ・キッドとか、オーストラリア、ビクトリアのネッド・ケリーの話など)、実はその多くがイギリス人とアイルランド人との間の対立関係に根差しているのである。ついでに言っておくと、土地を奪われたスコットランド人とアイルランド人が残酷な仕打ちを受けたということが、実は彼ら自身が、自分たちが移住した土地での原住民の奴隷に対して、残酷な仕打ちをするということに繋がっていったのであった。

しかしながら、司馬遼太郎の本を読むまでは、「風と共に去りぬ」という映画にとって、アイルランドの影響がどれほど重要なことかということに私自身気づかなかった。(ただ、ヒロインのオハラと言う名前は、まさしくアイルランド人の名前であるので、考え付いてもよさそうなものであったが。)

子供のころは、このあまりにも有名な「風と共に去りぬ」という映画ははっきり言ってつまらないと思っていた。あの、甘やかされたヒロインに対して、少しも同情の念は起きなかったし、彼女が最後にアシュリーといっしょになろうが、レット・バトラーといっしょになろうが、全く興味も持てなかった。私にとっては、アメリカの南北戦争についてジェーン・オースティン風に書いたものとしか思われなかった。これは褒めて言っているわけではないが。


映画そのものよりもっと面白いのは、映画にまつわる話である。たとえば、プロデューサー、デビッド・オーセルズニックがいかにしてスカーレット・オハラになる女優を見つけたか、とか(結局、あまり知られていなかったイギリス人の女優、ビビアン・リーに決まったが、そこに決まるまでにハリウッドの有名な女優はすべて、ラナ・ターナーからポーレッテ・ゴダードに至るまで、その役を射止めようとしては失敗したのであった)、あるいは、レット・バトラーのセリフ、「はっきり言って、おれはどうでもいいよ」(英語では、Frankly, my dear, I don’t give a damn)の「damn」(英語の罵る言葉)を強調せずに、「give」を強調するように、堅苦しい映倫が命じたことに対する騒動とか。

私は20代の初めの頃、姉と一緒にフロリダ州のキーウェストからアトランタまでドライブをしたことがあった。アトランタに近づくと、私は「風と共に去りぬ」の本を買って、車の中で最初の50ページを読んだ。その時読んだ、アトランタあたりの血のように赤い土の描写を、今でも忘れることができない。もし、イギリスかあるいはカリフォルニアでもソファに座ってこの部分を読んでいたなら、この描写は、それから始まる流血の南北戦争の比喩として、土壌が赤いと書かれていると思っただろう。しかしながら、アトランタ辺りの土壌は、本当に文字通り真っ赤なのだ!

とは言え、アトランタを去って以来、一度もその部分を読み返したことはなかった。しかし、司馬遼太郎の本で「風と共に去りぬ」の論評を読んでからは、この小説と映画を、全く別の角度から見るようになった。

この映画の中で一番重要なセリフは、例の「はっきり言って、おれはどうでもいいよ」ではなく、スカーレットのアイルランド出身の父親が、映画の最初で、Taraの農場を所有している事の大切さを娘に教える時に言った言葉なのだ。土地こそが一番大事なものなのだ、と彼は言う。「なぜなら、土地だけがずっとなくならないものだからだ。」あのアトランタの血のように赤い土地は、南北戦争が始まる前に、すでにアイルランドでのあの土地の強奪に関わる流血の歴史を秘めていたのだ。映画では、スカーレットの父親はまぬけなアイルランド人のように描かれているが、彼のこの言葉には、彼の強い決意がにじみ出ている:おれは以前すべてを奪われた、だが、もう2度と誰にもそんなことはさせはしないぞ。


しかしながら、甘やかされて育ったアメリカ人のスカーレットには、その土地の血に染まった歴史などわかろうはずもなかった。自分のオハラという名前がそれを示唆していたとしても。実は、「Tara」という農場の名前も、アイルランドの王の遺跡の名前から来ているのであった。

そのスカーレットが何もかも失った時、―母親も、夫も、娘も―そして南北戦争にも負けてアトランタが焼け落ちた時、望みを失った彼女の耳に、初めて父親の言ったあの言葉がこだまになって響いた。そうだ、私にはTaraがある。そしてその土地さえあれば、すべてが失われたわけではないのだった。「風と共に去りぬ」のラストシーンは、ありふれたサバイバル物のように見えるかもしれないが、しかし、それはもっとはるかに力強いメッセージを送っているのだ。スカーレットは、やっとこの時になって、自分が一体誰なのか、と言う事を理解する。自身の内に潜むアイルランド人気質に目覚めるのである。この、「偉大なるアメリカの小説」は、実はもっと深いレベルでは、アイルランド人気質とは何か、そしてそれがいかに受け継がれ続けていくものなのか、と言う事を考察したものに他ならないのであった。


水村美苗氏がアイルランドにも行く予定だと聞いた時、私は自分でもしつこいと思うほど、司馬遼太郎の「アイルランド紀行」を読むように薦めた。そしてうれしい事に彼女はそうすると言った。司馬遼太郎が、アイルランド人を描写するのに使ったある言葉を、私は忘れることができない。彼は、アイルランド人の本質は、「百敗不滅」であると言った。つまり、「百回負けてもその精神は滅びず」と言う事だ。

私は、「風と共に去りぬ」以上に、この「百敗不滅」の精神を見事に表現した作品はないと思う。

2016年11月18日金曜日

人生の知恵を教えてくれる「勧進帳」


もう30年ぐらいも前に、始めて Blake’s Sevenという、イギリスのサイエンスフィクションのドラマを見たが、その時のワンシーンが、今でも忘れられない。その中で、Blakeを中心とした反逆者たちのグループが、ある出入り口を通り抜けなければならなかったのだが、そこには、目に見えない力で守られている障壁があった。Vilaというインテリが(写真上)、何とかしようとするのだが、どのようなコード番号を入れようとも、どれほどのエネルギーを使おうとも打ち破ることができない。そのうち、やっと彼は気が付いた。そうだ、この障壁はエネルギーを使えば使うほど、そのエネルギーを吸収して、よけい強くなるんだ。それを開けるには、その目に見えない力が機能できなくなるような、ほんのわずかのエネルギーだけを使えば、その障壁は消え失せるのだ。

私たちはいつも、成功するためには、自分の持てるすべての力を注ぎこまなければいけないと言われてきた。たいていはその通りだろうが、時には、できるだけ何もしない方がいいこともある。たとえば、資料を作るだけのために雇われているような官僚たちに出くわした時には、できるだけ何も教えない方が、さっさといなくなってくれるものだ。イライラして、いろいろなややこしい事を持ち出そうとすると、ますますその行政の「見えざる力」はどうしようもなくなってしまうのである。

こんな風に、サイエンスフィクションを見ていて人生訓を得られることもあるが、歌舞伎を見れば、もっとそうである。荘厳なだけでなく、鋭い心理的洞察力を持った歌舞伎のすごさがよく知られていないのは、残念で仕方がない。

たとえば、「勧進帳」は、世界の歴史上で現れた数々の劇の中でも、特に優れた劇であるといえるだろう。「勧進帳」を見れば、今までに経験したことのないような、またとない壮大で、心躍る夜を劇場で過ごせるだろう。しかし、それは日本文化と特に関係があるからというわけではない。なんと「勧進帳」は、日々の生活をどう過ごすべきかについての深淵な知恵を、教えてくれるのである。

舞台は12世紀、義経は、自分の兄である頼朝の怒りをかい、少人数の忠実な家来たちと共に北に逃走中である。頼朝は、自分の地位を脅かすかもしれない義経を抹殺すべく、北に向かう道に番人と関所を設けた。頼朝の家来たちは、何があっても義経を逃すなと厳しく言われていた。
義経は、美しい青年で、弁慶に守られている。見つからないように、山伏に姿を変え、自分達の寺に献金してくれる者を探しながら、旅しているということになっている。その献金者の名前を、勧進帳に記す、というわけだ。

あらすじはざっとこんなものだが、面白いのは、Blake’s Sevenの時を同じように、どうしたらこの関所を無事に通り抜けることができるか、という単純な部分にある。

関守の富樫は、すぐにこの山伏の一行が義経をかくまっていると疑う。その後、弁慶と富樫との心理合戦が繰り広げられるのである。緊張感が徐々に高まり続けていく、手に汗握る展開である。とうとう、義経が今や捕まえられてしまいそうになった時に、弁慶は、武士の掟からは到底考えられない行動に出る。自らの主君である義経を、だらしのないお供だとでっちあげ、杖でたたき、早く行けと促すのである。

この場面は、富樫がそこまでして義経を助けようとした弁慶に同情して、この一行を行かせてやった、と通常は解釈されている。しかしながら、個人的には、私はその解釈に疑問を抱く。富樫は本当に同情だけで動かされたのか。それとも、むしろ、チェスのゲームにおいてでもそうであるように、富樫は弁慶との(写真右)はりつめたやりとりの中で、弁慶のあまりにも見事な戦略を称賛せざるを得なかったのではないか。その、実現不可能と思われた事を、実現させてしまった手腕に。
さて、一行が無事に関所を通り過ぎた後、弁慶はひとり舞台に残っている。この後、この歌舞伎の中で一番の見せ場とも言える部分が続く。自分の主義を曲げなければならなかったことに対する葛藤に苦しむ一方で、それでも主君を救う事ができた喜びに一段と決意を固める弁慶は(写真左)、見得を切って、花道を「飛び六方」で舞台を去っていく。われらのヒーロー義経は、間一髪で捕まえられそうになったが、これでまたもう一日、生き延びることができたわけだ。

この素晴らしい舞台を理解するには、その普遍的な洞察力に気づかなければならない。

日々の生活の中で、どうしようもない障害に行く手を阻まれることがあるだろう。そんな時のために、勧進帳から次のようなことが学べるだろう。まず、ときには全く思いもしなかったような事もしなければならないと言う事だ。それが、自分にとってどうしても曲げたくない主義を曲げることになるとしても。

第二に、目前の障害物とは、たいてい、人であることが多い。その敵を負かすには、勧進帳で弁慶がやってみせたように、心理的にその敵の敵対心を取り除くことである。自分の立場をしっかりと示し、これ以上敵対するのは意味がないと感じさせることである。

この鋭い心理的洞察力は、私たちの日々の生活においてのみならず、一国の、そして国際政治においてすら意義があると言える。たとえば、イデオロギーの違いで敵対する執念深い相手が、力では勝てないとしたら?どうしたら、その相手の考えを変え、障壁を取り除くことができるだろうか。それは、相手に、自分たちの立場こそを変える必要があると言う事をわからせることだ、と勧進帳は教えてくれる。

かく言う私も、ほとんど毎週のように、何らかの危機に面する羽目になる。それが仕事上の事であろうと、面倒くさいお役所手続きに関することであろうと、あるいはやっかいな家族の問題であろうと。そして、今度こそはもうだめだ、と思いながら。しかし、そんなときはいつも、勧進帳が、通り一遍に考えずに、心理作戦で人間の障壁をこじ開けるのだ、と言う事を思い出させてくれる。知らず知らずのうちに、私は台所で、弁慶のように苦しみと喜びに顔を歪ませながら、「飛び六方」で台所を駆け抜けていくのである。

だから、もし歌舞伎を見る機会が訪れたら、逃すべきではない。そして、歴史的な事にこだわらずに、その歌舞伎が教えようとしている人生の機智を、捉えるべきなのである。